翻訳と辞書
Words near each other
・ イル=デ=パン
・ イル=ド=サン
・ イル=ド=バ
・ イル=ド=フランス
・ イル=ド=フランス (欧州議会選挙区)
・ イル=ド=フランス地域圏
・ イル=ハン国
・ イル=モレーヌ
・ イレア
・ イレアナ
イレアナ (ルーマニア王女)
・ イレアナ・コトルバシュ
・ イレアナ・コトルバス
・ イレアナ・ベルトラン
・ イレイザー
・ イレイザー (映画)
・ イレイザーヘッド
・ イレイジャー
・ イレイセン
・ イレイン・ブスト


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

イレアナ (ルーマニア王女) : ミニ英和和英辞書
イレアナ (ルーマニア王女)[じょ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王女 : [おうじょ]
 【名詞】 1. princess 
: [じょ]
 【名詞】 1. woman 2. girl 3. daughter

イレアナ (ルーマニア王女) : ウィキペディア日本語版
イレアナ (ルーマニア王女)[じょ]

イレアナ・デ・ロムニアルーマニア語:, 1909年1月5日 - 1991年1月21日)は、オーストリアトスカーナ大公アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(トスカーナ大公レオポルド2世の曾孫)の妃。
ルーマニアフェルディナンド1世と妃マリアの三女として、ブカレストで誕生。母マリアは長らく父フェルディナンドと不和であり、長兄カロル2世と長姉エリサベタの後に生まれた兄弟たちの父親は、マリアの愛人ではないかと疑問視されていた。しかし、イレアナはその人柄を国民に広く愛されており、愛人に溺れ醜聞にまみれた長兄カロルよりも人気が高かった。そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策した。
1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。それを契機に、兄カロルは国民のハプスブルク家支配への憎悪を巧みに煽り、イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じた。2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が生まれた。
*シュテファン(1932年 - 1998年)
*マリア・イレアナ(1933年 - 1959年) 1957年、コトゥリンスキー伯爵ヤロスラフと結婚、1959年にブラジルで航空機墜落事故に遭い夫とともに死亡。
*アレクサンドラ(1935年 - ) ヴュルテンベルク公オイゲン・エーバーハルト(ヴュルテンベルク公アルブレヒト・オイゲンとブルガリア王女ナデジダの次男)と1962年結婚、1972年離婚、1973年にバイロー男爵ヴィクトルと再婚
*ドミニク(1937年 - )
*マリア・マグダレナ(1939年 - )
*エリーザベト(1942年 - )
第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し働いた。
ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。イレアナらはスイスアルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカマサチューセッツ州に居をかまえた。彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え、2冊の本を執筆するなど活動した。この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人と再婚するが1965年に離婚し、イレアナはフランスビュシー生神女庇護修道院に入った。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。1981年に引退するまで活動した。1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。

'', 1909年1月5日 - 1991年1月21日)は、オーストリアトスカーナ大公アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(トスカーナ大公レオポルド2世の曾孫)の妃。
ルーマニアフェルディナンド1世と妃マリアの三女として、ブカレストで誕生。母マリアは長らく父フェルディナンドと不和であり、長兄カロル2世と長姉エリサベタの後に生まれた兄弟たちの父親は、マリアの愛人ではないかと疑問視されていた。しかし、イレアナはその人柄を国民に広く愛されており、愛人に溺れ醜聞にまみれた長兄カロルよりも人気が高かった。そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策した。
1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。それを契機に、兄カロルは国民のハプスブルク家支配への憎悪を巧みに煽り、イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じた。2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が生まれた。
*シュテファン(1932年 - 1998年)
*マリア・イレアナ(1933年 - 1959年) 1957年、コトゥリンスキー伯爵ヤロスラフと結婚、1959年にブラジルで航空機墜落事故に遭い夫とともに死亡。
*アレクサンドラ(1935年 - ) ヴュルテンベルク公オイゲン・エーバーハルト(ヴュルテンベルク公アルブレヒト・オイゲンとブルガリア王女ナデジダの次男)と1962年結婚、1972年離婚、1973年にバイロー男爵ヴィクトルと再婚
*ドミニク(1937年 - )
*マリア・マグダレナ(1939年 - )
*エリーザベト(1942年 - )
第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し働いた。
ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。イレアナらはスイスアルゼンチンへと移り住み、最終的にはアメリカマサチューセッツ州に居をかまえた。彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え、2冊の本を執筆するなど活動した。この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。亡命ルーマニア人と再婚するが1965年に離婚し、イレアナはフランスビュシー生神女庇護修道院に入った。修道女アレクサンドラとなったイレアナは、ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。1981年に引退するまで活動した。1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「イレアナ (ルーマニア王女)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.